「なんだか気に入らないね」
中山競馬場の帰り道、混雑した武蔵野線の中で、こんな会話が聞こえてきた。
「よりにもよってヴィクトリーかよ、ったく」
愚痴っているのは古ぼけたジャンパーを羽織った初老の男性。
誰も返事をしていないところを見ると、一匹狼の競馬オヤジであろう。
男は周りの人にもハッキリ聞こえるくらいの声で独り言をこぼしていた。
不思議なもので、競馬帰りの人ごみの中では、
こうした独り言をこぼしていても周囲からさほど浮かない。
その様な空気は、
負けて帰る群衆の連帯感から生まれるのだろうか。
「だいたい名前が気に入らねぇんだ、ヴィクトリーってのはなんだッ!
自分から勝利を名乗るなんて、おこがましいったらねぇよ、ったく」
なるほど、同感である。
時には私も、馬名には敏感になってしまう瞬間があって、
馬なのにタイガーだのドラゴンだのを付けるのはナンセンスだと思うし、
冠名は馬名のオリジナリティを大きく損なうものだと考えているし、
かと言ってモチだのアップルだのココナッツだの、
美味そうな名前をつけられてもなんだかシマリを感じない。
馬名というのはやはり独創的であり、かつ語呂が良いものが理想であろう。
古くはシンザン、ミハルカス。
最近ではアイルラヴァゲイン、ルミナスハーバー、
サンデーサイレンスあたりが私のお気に入りである。
実在の馬ではないが、オラシオンも素敵だと思う。
なんて事を考えているうちに、ついボーっとして男の方を見つめていた。
男と目が合った。
「いいか若ぇの、競馬に勝っても、人生に負けちゃ何にもならん。
・・・今日皐月賞を勝った騎手の名前、言ってみろ。」
男の声にはやけに威圧感があった。
私はつぶやく様に答えた。
「・・・田中勝春」
「そうだ、勝春だ、田中勝春だ。おめぇも頑張って、勝つこった。」
なんだかよく分からない説教だったが、
この男の声の低さと眼差しには、多少なりとも父性を感じた。
船橋法典から西船橋へのひと駅で起きた、本当の話である。
「あんたに言われたくないわッ」と言い返す隙は、残念ながら無かった。
言い返せなかったとは、絶対に言いたくない。
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