「当てる」と「当たる」の違いすら満足に認識出来ない私ですが、
最近の競馬に対して、やけに老け込んだ姿勢を、
自ら崩せない状態が続いています。
春のG1が始まり、クラシックシーズン真っ只中だというのに、
「あーもう桜花賞かー」くらいのテンションのまま、毎日が過ぎています。
とはいえ、競馬の話題には自然と体が食らいついてしまう様です。
Aさん「桜花賞、買いましたか?」
Bさん「買いましたよー、3連単、100円だけですけど当たりました」
Aさん「・・・ごちそうさまでーす!」
こういう会話を耳にすると、ちょっと待ってくれと言いたくなります。
馬券的中したBさんが、何故に無関係な人間におごらねばならないのか、と。
もちろんAさんは冗談で言っているのでしょうが、
私はなんとなく真面目に捉えてしまうのです。
Bさんはどれだけの努力をして、3連単の買い目を絞ったのか。
Bさんは全部でいくら投資したのか。
こういうバックグラウンドを想像すると、
「ごちそうさまでーす!」よりも前にかけるべき言葉はたくさんあるはずです。
どういう道筋をたどって予想したのか、敬意を持って聞いてみたくなります。
もしBさんが血の滲む様な努力の結果、
カタマチボタンという穴を搾り出したのならば、
たとえ冗談であっても、
「ごちそうさま」なんていう言葉は失礼極まりないです。
というわけで、実際にBさんに聞いてみました。
私「3着に入ったカタマチボタン、あれどうやって選びました?」
Bさん「ああ、なんとなく、名前が良かったんでー」
こんな返答を聞いてしまうと、
ついつい真面目に予想する事への疑いが生まれてしまいがちです。
「予想をする事」自体に喜びを見出せるのならば問題ないですが、
「儲ける事」でしかモチベーションが保てなくなってくると、
競馬をする事が億劫になってしまいかねません。
私は大人になるにつれ、
自分以外の対象物にのめり込む事が、
実は全く生産性の無い幼稚な事なのではないかという思想を持ち始めました。
さらにそうなると、結局競馬を長く続けるコツというものは、
どれだけ馬券師としてのアイデンティティを、
自らの意思で保てるかどうかなのではないか、と。
かの寺山修司氏は、馬券を買い続ける理由を「知りたいから」と述べられました。
私にもそろそろ、単に楽しむだけではない、
大いなる野望を兼ね備えた理由というものが必要なのかもしれません。
→過去の記事
|